「君が心をくれたから」は、おそらく文字媒体で考えれば面白い作品でした
2024年1月~3月期
文字で読むという媒体であれば、練り込まれた面白い作品なんだと思いますが、毎週の週始めの月曜日の夜に連ドラとしてエンタメだったかというとなかなかツラいところでした
トッカカリとしては好きな人、いい人とはいえ、命を救うために自分の五感を差し出すか?の疑問を持ってしまいました
五感を失うことの重大さ、五感を失えばおそらく生存していくことは難しくなる=死を意味すること、それよりツラいことを意味します
ちょっと他人にそこまで出来るか、出来るのは自分の子供くらいなのではないかと考えてしまいました
ただそこの現実とファンタジーを普通に「あり得ないこと」として、ある意味受け入れれば、ストーリーとしてはとても練り込まれた、五感を扱うだけに余計に感情、感傷を浮きだたせることに成功している作品だと思います
逢原雨を演じた永野芽郁さんは、明るく可愛い役を演じられているのを知っていただけに、その部分を残しつつしっかりと重い、哀しくも愛に溢れた雨を違和感なく演じられていました
やはり実力のある幅の広い俳優さんなんだと再認識しました
朝野太陽を演じた山田裕貴さんもずっと受け身で優しい太陽を、観手を苛つかせないいい塩梅で綺麗に演じられていました
ただ…最終話で太陽は自分の命と引き換えに雨の五感を戻します…
これって太陽が死んで雨が残されるという、あの事故の時に設定が戻るということですよね?
そうなるとこの五感を失っていった時間は良く言えば「二人の掛け替えのない時間を過ごせた」ということかもしれませんが、「ただツラい時間が増えて、さらに掛け替えの無い時間を過ごした太陽を失った」ことになります
余計にツラくなっただけではないですか?
あの事故の時に太陽を失っていれば高校の時に想いを寄せていた同級生を失った程度で済んでいたことが、掛け替えの無い時間を過ごした太陽が心に残ることはこの後の雨の人生にとって良いことなのでしょうか?
忘れられるくらいの時間を過ごしただけの太陽の方が良かったのではないでしょうか?
もしこの結末ならば、今後の雨の人生のためにも、太陽は雨の「太陽との掛け替えのない時間」の記憶を失わせてから目覚めさせるべきではなかったでしょうか?
「観手」:ドラマを創る・作成する人の「創り手」という言葉に対して、それを観る・鑑賞する人を差す言葉として使っています
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